それは今から千年も前、平安時代のこと。加賀の国・山科(現在の金沢市郊外)に山芋を掘って暮らす藤五郎という男が住んでいました。ある日、藤五郎のもとに、大和の国の長者が「夢で観音様のお告げがあったので、娘を嫁にしてほしい」と娘を連れて訪れます。娘はたくさんの持参金を持って嫁いできましたが、藤五郎はそのお金を貧しい人たちに分け与えてしまいます。娘の暮らしぶりを見かねて、長者は砂金を送ってきました。しかし、藤五郎は雁の群を捕らえようと、その砂金の入った袋を投げつけてしまいます。あまりのことに娘が怒ると「あんなものは掘った芋にたくさんくっついている」と藤五郎。娘は藤五郎と一緒に山へ行って芋を掘り、近くの湧き水で洗ってみました。すると、水の中で金色の小さな粒がキラキラと光ります。砂金です。二人はたちまち大金持ちになりました。貧しい人たちにも分けたので、人々から「芋掘り長者」と呼ばれて敬われるようになりました。二人が芋を洗った湧き水はいつしか「金洗いの沢」と呼ばれるようになり、金沢の名の由来になったといわれています。 このお話の本当のところはわかりませんが、なんとロマンに満ちて、ほのぼのする話でしょう。金洗いの沢は金城霊沢(きんじょうれいたく)とも呼ばれ、日本三大庭園の一つ・兼六園の一角にあって、今もこんこんと清水が湧き出ています。
金箔は純金とはまた違う穏やかで柔らかい輝きが魅力です。ヨーロッパでは古くから教会の装飾品や額縁などに、日本では「京都・北山の鹿苑寺金閣」や「岩手・平泉の中尊寺金色堂」に代表されるように寺院の装飾に金箔を施すことも多いようです。静かに輝きを放つその場所にたたずむと、ふと違う世界に連れていかれたような錯覚を覚えることがあります。建立に携わった人たちも極楽浄土を思い描いていたのでしょうか。奈良時代につくられた唐招提寺の千手観音立像(木心乾漆造では最古最大の像)にも金箔が使われていたことがわかっています。金は大気中では酸化しない、つまり腐食しない金属です。古代の人たちは金色(こんじき)に永遠不滅のしるしを直観していたのかもしれません。 金沢では室町時代後期に浄土真宗・本願寺を発展させた蓮如が北陸を行脚したことから、農民の間にも浄土真宗が大いに広まり、真宗王国と呼ばれるようになりました。当時から人々の厚い信仰心に支えられ、その象徴ともいうべき仏壇や仏具の製作がさかんに行われ、金箔は重要な素材の一つとして、なくてはならないものでした。
金沢での箔打ちの歴史を伝えるもっとも古い史実は約400年前。文禄2年(1593)、加賀藩初代藩主・前田利家公が朝鮮出兵の陣中から、箔の製造を命じる手紙を国元に送っています。このことから、それ以前から金箔製造が行われていたことが推測できます。 しかし、江戸時代になると、幕府は金を厳しく統制。箔の製造・販売も統制し、江戸と京都でのみ箔打ちを許可しました。加賀藩では密かに製造を続けるしかなかったようです。そんな折、文化5年(1808)に火事で金沢城二の丸などが焼失。再建のために大量の金箔が必要となり、前田家は幕府から期限つきで金箔製造の許可を得ます。そのことが金沢の箔職人たちの心に灯をともしました。幕府から製造・販売の許可を得ようと動き出します。運動の中心となったのは能登屋佐助。さくだ本店のある金沢・東山の出身といわれています。粘り強い運動と藩の尽力を得て、元治元年(1864)、ようやく加賀藩御用の箔に限り、公に製造が許されたのです。 明治になると、幕府のうしろだてを失った東京の製箔業は急速に衰え、かわって金沢箔が伸びていきます。第1次世界大戦後は当時、世界に流通していたドイツ箔の製造が途絶え、金沢箔が世界に進出。第2次大戦直後の苦難の時代を乗り越え、戦後の復興とともに金沢箔も復活し、昭和52年には国の伝統的工芸品産業・用具材料部門で指定を受けることになったのでした。
金沢でこれほど製箔業がさかんになったのには大きく二つの理由があります。 一つは金沢の気候と風土です。静電気が起こりやすい金箔は乾燥を嫌います。湿度の高い気候と、金箔製造に重要な役割をはたす箔打紙づくりにかかせない良質の水に恵まれた風土。これが箔打ちにはぴったりの環境なのです。 もう一つは地道な作業を粘り強く続けられる職人の気質です。この気質こそが厳しい時代の中にあっても屈することなく、丁寧さと緻密さが求められる高度な技術を連綿と受け継いで、上質な金箔をつくりだす礎となったのです。 この二つの理由から、苦難の時代をくぐり抜け、金沢に本物が残ることとなった、金沢はまさに「箔の街」なのです。
また、合金をはさむ箔打紙と呼ばれる紙の良し悪しが金箔の品質に大きく影響するため、紙の仕込みを専門とする職人もいました。わずか1万分の1~1.2ミリの金箔を扱うため、箔打紙はほんの少しのひっかかりやしわがあってはいけません。雁皮紙(がんぴし)という和紙を灰汁や柿渋、卵白などを混ぜ合わせた液に浸けて、乾燥し、打って滑らかにするという作業を繰り返して仕上げます。箔打紙によって金箔のできばえが変わるといわれるほど大切な工程です。 この箔打紙は仕込みと箔打ちの過程で何度も打たれて繊維がきめこまかくなり、皮脂を吸収しやすくなっています。そのことをどのようにして知ったのでしょうか。女性はいつの時代も美の探求に熱心です。使いふるされた箔打紙は昔から芸妓さんたちの化粧紙として愛用されていました。「おしろいを落とさずに脂のみがとれる」「あぶらとり紙が吸収した皮脂が肌にもどらない」と評判のさくだのあぶらとり紙。伝統の金箔打紙や肌によい天然エキスを配合したものなど、さまざまな種類のものをご用意しております。